職の世界と役の世界


久しぶりに、研修のときの長谷川先生(茨城大学)の話です。以前の書き込みをあわせて読んでいただくと、よりわかり易いかもしれません。研修全体の話の趣旨は、協働そのものの考え方ではなく、そのベースになっているものについてでした。
前回同様、講演のほんの一部ですし、かなり要約しています。全体の講演を聴かないと分かりにくいのかもしれませんが・・・・・はじまりはじまり。

『・・・・・「徘徊」とともに、私の嫌な用語に「高齢者」という言葉があります。今では当たり前に言うようになりましたが、私は大嫌いな用語です。

65歳になると「高齢者」と言うんです。本人の承諾もなしにです!福祉の関係の職員の方なら良く分かってますね。64歳と11ヶ月30日までは「高齢者」じゃありません。たった一晩寝て起きたとたんに「高齢者」になるんです。

これは厚生労働省が決めた基準ですから、全国一律です。私は、全国一律で自分の年齢を決められたいとは思わないんです。だって、人の人生ってそれぞれでしょう。何で一律に、行政によって決められなきゃいけないのかって問題があります。

一方では、行政が施策を行う以上、一律の基準を入れなきゃならないから、この矛盾があるんです。一人ひとりの幸せの形が多様になってきている。しかし、行政は「みんなの課題」「公共の課題」として、何か施策をやるときに一律の基準を持って知らせなきゃならないんです。

でも、この一律の基準が人々の「幸せ」を「不幸」に変える可能性があるってことです。

65歳から75歳までが、「前期高齢者」になっています。「前期」ですよ。皆さんももう直ぐだと思いますよ!以前は、75歳から85歳までを「後期高齢者」と呼んでいたのです。「後期」ですよ。じゃ86歳はなんて言えばいいのかというと、「末期高齢者」かということになる。

こういうふうに一律に決めていく時間があって、一律に決められているんです。ここにいる皆さんだって、もう直ぐ60歳になれば社会的な死を宣告されるわけでしょう。「いらない」って言われるんですよ。あと、もう何もないでしょう。なくなって戻る先の世界を、どういうふうにつくってきたのかってことは問われますよ。

皆さん方ももう直ぐ迎えるんですよ。ですから、私たちがなぜ協働しなければならないのかというのは、自分の問題でもあるからなんです。ここを頭に入れておいて欲しいんです。いいですか。

−略−

さて、このことを解くために、2つの世界という考え方を見てみましょう。市民は、今この2つの世界に生きています。一つは「職の世界」です。これは、頑張ればお金になる世界です。

例えば、役所で「おはようございます課長」と言われるとチャリンと入るんです。これはお金になる。私だって「先生」って呼ばれるとチャリン」って入ってくるんです。でも、私が地域でやっている「町会長」って呼ばれても、普通はチャリンとは入りません。お金になる呼び名があるんです。

この「職の世界」を、私たちそして日本は、戦後60年の中で大きくし力を割いてきました。私たちの両親は、自分の子どもや孫のために大きくしてきました。

なぜなら、みんな貧しかったから。この「職の世界」がボロボロだったから。今、課長や部長をやっている人だって、子どのもの頃は、みんな鼻を垂らしていたでしょ。鼻をかむちり紙がなかったんだから。しかもみんな青っ鼻です、栄養失調だから。

今なんかどうですか。私たちの両親が「職の世界」を大きくしてくれたおかげで、最寄の駅前を何回か往復してごらんなさい、ただで、いくらでもちり紙が集まるから!それだけ豊かになったわけでしょう。この豊かさをつくってきたのが、私たちの両親であることは間違いありません。

貧しい時代が間違いなくあったんです。高度経済成長を経る中で、良くも悪くもドンドンドンドンと「職の世界」を大きくしました。

さて、問題はここからです。今日、研修に来ている中には課長もいっぱいいると思います。課長と言われている人も、家とか地域に帰ってみれば、そこにはもう一つの世界があります。これを私は「役の世界」と呼んでいます。

家に帰ってごらんなさい。かつては愛したことのある妻が待っているから。かつては愛したことのある妻が待っていて、「お帰りなさい課長」なんて言ってごらんなさい。これはもう愛がないっていうことです。

だから、大体はそう言わない、「おかえりなさい、あなた」とか言う。「あなた」って言葉だって、結婚期間が長くなればなるほど愛と憎しみで満ち溢れてきます、ないしは「おとうさん」とか呼ばれる。

「課長」って呼ばれるとお金になるんです。「あなた」と呼ばれると大体お金は出て行きます。出て行くでしょう。これが鼻にかかって言われたら多めに出るんだから。「おとうさ〜ん」なんて言われた日には、湯水のごとく出て行くでしょう。これが、高度経済成長とともにつくってきたサラリーマン化した家庭の中で、日常的に行われるようになりました。

それでは、この60年の間に、「役の世界」は何を豊かにしてきたのかというのが問題です。「あなた」って言われるたびにお金が出て行き、「おとうさん」って言われるたびに出て行くんですよ。これは何かっていうことを、55歳になった今でも独身の私が言うのも本当に変なんですけど、「愛」ですよ。「愛」とか「心」とか言われます。

問題はここです。この仕組みを、このまま日本が次の世代に伝えていっていいのかどうかというのが問題なのです。私たち日本人が幸せになるために、高度経済成長期に「職の世界」を大きくして、豊かさを得てきたのです。だから、私たちの子どもや孫が、結果不幸になるんだったら、私たちはこの仕組みを変えていかざるをえないのですよ。このことが、行政の協働事業の根底にあります。・・・・・』

この後は、男女平等共同参画の話から、現代社会が抱える本質的な課題を紐解く内容です。協働の根底にあるものを鋭く指摘しているのです。・・・では続きをどうぞ。

『・・・・・・。男女共同参画の話も織り交ぜ話をすると、高度経済成長の中で何がどうなったかとかというと、「役」と「職」の間に線が入ったんです。私たちの父も母も、子どもを幸せにするため、「役」と「職」の間に線を入れると決めたんです。

「職の世界」では男が頑張る。その代わり、妻である女は、働きに行かないで「役の世界」で子を育てる、このように分担したのです。男女共同参画は、女が男に押し付けられて「役の世界」に追いやられたんじゃないですよ。男も女も、これが子どもや孫の幸せのためになると思って選んだのです。私の両親も男と女の分担をやったのです。だから私はこれを否定しません。

ところが、これはあくまでも高度経済成長の過程でつくった男と女の分担なのです。これが昭和47年から48年にニクソンショックとかオイルショックがおこると、「職の世界」で頑張ってきた男のベースアップとかがなくなっていきます。

毎年のようにベースが上がっていたんだから、そういう時代だったから、妻は「役の世界」でやれたのですが、ベースアップがなくなっていく。そうすると、妻も「職の世界」に働きに行かざるをえなくなったし、おまけに「職の世界」の成長とともに女性の学歴が上がっていったから、「職の世界」に行って「勝負したい」という女の人も出てきて当然でしょう。

「職の世界」に行った女の人たちは、最初なんて言われたか分かりますか?「職場の花」って言われたんです。花はいつか枯れるんです、ドライフラワーにもなるんですよ。ですから、これは「花」じゃなくなったら「帰れ」って意味でしょう。男を「職場の花」なんて言うことはないんですから。

「職の世界」で頑張ろうとした女の人たちは、いろんなものにぶつかりました。私は地元の銀行に行って聞いたことがあるんです。なんて聞いたかと言うと、「受付窓口業務をやっていて男と女の差別を感じたことはないですか?」と。

そうしたら「ある」と言うのです。それが、会社の人事などでではなく、お客さんの対応でと言うのです。男性のお客が男性行員のいない時に来て、「誰かいないの」って言ったそうです。ここにいるのにと思ってお客さんの方を見ると、「なんだ誰もいないのか、じゃまた来る」って帰るんだそうです。つまり、一人前に扱われていなかったのです。だから、「職の世界」に行って頑張ろうという女性達にとって、この仕組みは不幸せになってきたんです。

じゃ、男性は幸せかというととんでもない。男性は60歳で切られる、60歳になったら「いらない」って言われる。帰る場所がないんですよ。ある大手製作会社で聞きました。60歳になったばかりの、退職した30組のご夫婦に「退職したら、何をしたいですか?」と聞きました。

だんなさんの方は、30人とも「ばっちり」同じ回答。なんて言ったかというと、「退職したら、苦労をかけた女房と二人切りで旅行でもする」って。渡哲也と同じことを考えているのです。

奥さんの方に「ご主人が奥さんと旅行に行きたいと言ってますよ」って言うと、8割が「とんでもない、夫と2人きりで行くくらいなら、友達同士で行きたい」って答えたのです。

それだけ「役と職の世界」がボロボロになっているのに、これに気付かない。もっと男性だって「役の世界」に自由に行き来ができるような仕組みに変えていかなければならない。「役の世界」を少し変えて男性が行けるように、女性が「職の世界」に行けるように、「役と職の世界」の間をスムーズに行き来できるような仕組みをつくろうというのが、男女共同参画です。何も難しいことはありません。男も女も幸せになるためには、どうしたらいいのかという仕組みでしかありません。・・・・・・・』

まだまだ続く話なのですが、「職の世界と役の世界」の話は次で終わりです。今のままでは、日本の地域社会は立ち行かなくなっていることを、「職」と「役」の話から導き出しています。はじまりです・・・・。

『・・・・こうなるとまずに、「役の世界」を大きくしなければならないことに気がつくでしょう。「役の世界」がボロボロになったんだったら、「役の世界」を大きくするしかない。

男性はよく考えてごらんなさい。課長たちは、「職の世界」に出かけていくのですよ。職場に行くとき、課長という仮面をかぶる。どんなに家で夫婦喧嘩したって、職場では見せないんだから。

職場から帰る途中で「仮面」をはがす。課長ぐらいだったらはがせるかも知れないけど、部長までいったらもうはがれない。どうやってはがすか分かりますか?帰り道に「仮面をはがす公共施設」が用意されてるんですよ。その公共施設のことを「赤ちょうちん」って言う。この仕組みの中で「役の世界」がボロボロになっていったのだと私は思います。

「役の世界」を大きくしたい、「家族だとか地域のこと」を大きくしたい、それが協働の根底だから。これを大きくするために、何を考えたらいいか。「あなた」とか、「おじさん」、「おとうさん」とか、「ボランティア」とか様々な地域の中にあるいろんな「役」、これを豊かにつくっていけばいい。それには、従来持っていた地域の役とか家族の役を超えて、新しい役をつくる。

「新しい公共」という考え方です。「みんなの課題だ」「これが課題」だと、行政が決めたことに住民を参加させるのは「参画」なんです。協働は違います。いっぱいいろんな市民が出てきたんだから、幸せの形がいっぱい出てきているんだから、それをまとめあげ、みんなの幸せだとすれば、これを公共と言いますから、従来の公共イメージを超えた新しい公共になります。

新しい公共を作り出すということが、「市民参画」と全然違うところなんです。つまり、いままでだったらイメージでこれが公共性だと思っていたのが、市民と行政が一緒にやることによって、これも新しい公共として作り出そうということを決めていくんです。

例えば、私が関わっている青森のある町では、朝ごはんを食べる条例をつくりました。これに本当に公共性があるかどうかというのは、私も今もって疑問だけど・・・・、協働の一つとして朝ごはんを食べると言うのが出てきたんですよ。

「朝ごはん食べなきゃ、みんなだめだっぺ」という話になって、条例になっちゃったんです。そうして、朝ごはんを食べることが動き出したら、子どもたちは親から「朝ごはん食べなきゃ法律違反だ」と言われて、毎朝ご飯を食べるようになった。すると、学校での子どもたちの状況が「がらっ」と変わってきたんです。

こんなのは公共性を超えるでしょう。だけどその町では公共性なんです。これが基礎自治体の根底です。何も国に従うことはないんです。だから、75歳からが高齢者だって言っていい。別に65歳でなくたっていいんです。そこがポイントです。

いろんな「役」を豊かにつくる。それを私はなんと言っているか?
「新しい役づくり」のシナリオだから、まちづくり新「役」聖書と言っています。キリスト教では、「役」の部分は約束の「約」なんです。

私が考えるまちづくりでは、役割の「役」です。この「役」がいろんな形で、いっぱい描けてくれば、市民がどんな「役」を背負ってくれるかということで、初めて協働の基盤が出てくる。

その時に「いやー、昔は行政がみんなやって、今は金がないから俺らに手伝えとか言っているのか」と言う人が必ずいます。こういうふうに昔の考えでやる人のことを何て言うのかというと、旧「役」聖書って言うんです。

昔は戻って来ないとすれば、新しい幸せの形を市民・区民と一緒にどうやってつくれるか、幸か不幸か皆さんの時代に迎えることになったということです。間違いなく、今から5、60年前の私たちの先輩は、子どもや孫のために今までの「職」と「役」の仕組みを決めたんです。幸せの形をこれで行こうと決めたのです。それが、今から30数年前から、そろそろ限界が来はじめたのです。・・・・・・』

職と役の世界の話はこれで終わりです。