お雛様の前の日、隣の息子の家の15歳になるヨークシャーテリアのショウタが昇天しました。
 一週間前から具合が悪くなって、動物病院に入院していましたけれど、帰ってきたその夜天寿を全うし、知らされて見にいきましたら、それはそれは可愛いぬいぐるみのような顔で眠るような最期でした。

 不謹慎なことですけれど、夫の昇天をまだ目のあたりに残している私としては、たとえそれが何の生きものであっても、驚くにはあたらず、まあ、かわいい、と思わず言ってしまいました。
 翌朝引き取りに来るという動物霊園に間に合うように、何か花を、と庭を探しましたら、クリスマスローズが2輪花を開かせていました。
 かきわけて見たら他には蕾が見当たりません。
 大事な大事なクリスマスローズで、一瞬躊躇したのですけれど、人懐っこくて素直だったショウタのために思い切りよくばっさりと切り取り、おとーさんのために買ってきて供えてあった、うっすらと緑がかった薔薇を1輪そえてお見送りをしました。
 保険の利かない動物のこと、入院中の請求書をみて、「目が回りそう」、と呟いていた息子夫婦のために、少々のカンパをして、わが家はまたもや喪中の雰囲気です。


                    


 そこはかとなく漂う春の気配に誘われて、ユトリーバのバス旅行に出かけました。
 行く先は去年行ってとても満足した南房総はとバスの旅です。
 暖かくなったとはいえ、東京湾の海ほたるを横切る風の冷たさに、思わず首をすくめました。
 それでも、房総半島に渡れば、東京の南に位置するわが家とは比べものにならない暖かい空気が流れています。
 鴨川のお魚屋さんの昼食は、今日の最大ヒットメニューです。
 「うに、いくら定食」は考えたら東京湾のものではないけれど、そのたっぷりと盛られた新鮮さに、思わず舌鼓を打ちました。
 実は今回、去年味をしめた「なばな摘み放題」が目当てで、ユトリーバご一行8名さまに、「大きな袋を持っていくといいわよ」、と大太鼓を打ったのに、今年渡された袋は予定に反して、小さなものでした。
 でも、そこは百戦錬磨のつわものぞろい、皆ぎゅうぎゅうに詰め込んだ菜花で、たんまりと夜ごはんのおかずを獲得しました。
 帰りに立ち寄った苺食べ放題では、15粒で大満足だったのに、バスの中で、一番たくさん食べた人は81粒と聞いて、世の中には胃袋がたくましい人ってあるんだな、と降参です。
 隣り合わせの千葉県ですけれど、うらうらと春の気配が海風に乗ってきて、春は確実に玄関先までやってきているようです。

                  
                


 この歳になって初体験をするなど、思ってもみないことでした。
 3月11日、かねてからお約束だった、来日中の、ネパールのミトラスクールの校長先生であるバルアマサコさんが来てくださるというので、朝からウキウキとしていました。
 話し合って決めていた時間に駅にお迎えに出向き、午後まであわただしく近況報告の交換をして、駅までお送りする途中で体が突き上げられました。
それが地震だと気がつくまでに数秒を要し、今にも倒れてきそうな電柱をよけながら、2人で手を取り合って線路の空間までよたよたと歩き、生きた心地もしませんでした。
 つくづく思ったことは、お別れする前でよかった、ということでした。
 度々震度3くらいの地震を経験しており、そのたびに線路の点検のために電車が止まることを知っていましたから。
 迷うことなく家に引き返して、その日はわが家に泊っていただくことにしたおかげで、これはその後の状況からすれば不謹慎極まりないこととは重々承知ながら、思いがけない貴重な時間を神様から頂いてしまったような気がしました。
 ちなみに、冗談で名付けたわが家の空き部屋「ホテル・ザ・ボロ」の第一号のお泊り客でした。
 仕事に出ていた隣の子どもたちも、どうにか都心から歩いて帰ってきたり、翌朝まで会社に泊まったりで、無事でほっとしました。
 聞けばマサコさんは子どものときに郷里の福井大地震に遭って家がつぶれたとか……。
 私にとっては生まれて初めて経験した激しい揺れでした。



            



 地震発生から10日が経って、その後に起きた原発事故との影響がますます増大していく中で、思うことは多々あります。
 政府と東電の出足の悪さ、予想を超える被害範囲の中での復興に向けてのスタートの遅れなどの最悪の状況の中で、70歳以上の方々の精神力の強さをまざまざと感じさせられています。
 子どものときに戦争を経験した私たちの年代は、逆境に耐える力が体に染みついています。
 よく笑い話になるのですけれど、一片の紅ショウガだけでご飯(もちろん麦や雑穀)が3杯も食べられるということだってあったのですから。
 日本人の精神構造の基盤は、原爆をはじめとする多くの試練のなかで、忍耐とあきらめが深く根付いていることに、改めて思い当りました。
 いま最も腹立たしいのが、東電のお偉方の態度です。社長さんの顔をとんと見かけませんが、どこにいるの?
 不眠不休の現場から直行したことが歴然としている、振り乱した髪、無精ひげ、血走った眼の、身を呈して働く人の隣で、整髪したネクタイスーツ姿の副社長さんの姿はむしろこの場合不思議な、と思ってしまう程の違和感でした。
 差し当たって私に出来ることを考えて、地震以来暖房は止め、いざという時、トイレットペーパーとティッシュペーパーの代わりに出来るようにと、古いシーツを切って積み上げています。
 谷垣さんが入閣の要請を拒絶した、というニュースが流れています。
 こんなときにこそ超党派で取り組むことが出来ないのかしら?政治屋さんの思惑は私のようなおバカには理解できません。
 夫が亡くなって、いまだに涙が出ない私なのに、テレビ画面に流れる現場の状況に、思わず泣いてしまいます。
 飛んで行って役に立つことが出来ないのがいらだたしい気持ちです。被災地の子供たちのために歌を歌ってあげたい。今はせめて、取りやめになったクラス会の会費を、出来るだけ確かな方法で募金しようと思っています。
 そして、この大試練によって育まれたいたわりと思いやりの精神、それにもまして何よりも団結力で、これからの日本はきっと素晴らしい国になることでしょう。
 被災された方々には心底申し訳ないことですけれども、おおきなばねを与えられたように思います。
 


 地震から2週間が過ぎました。朝、家の近くからバスに乗ろうと思ったら、節電のための運行中止でした。
 電車と並行して走るこの路線の利用者は、病院に通う無料パスのお年寄りが殆んどですから、当然の処置と思いました。でも、同時に困っている人が居るだろうな、と、すこし気がかりです。
 用足しをしてから、久しぶりに渋谷に出ましたら、いつも混んでいる駅のコンコースが暗く、どことなく淋しく感じられましたけれど、デパートの食料品売り場は、いつも通りの賑わいでした。
 駅前が人だかりがしているので、覗いてみたら、たくさんのお相撲さんが募金活動をしていました。
 こんなに人だかりがしているところをみると、きっと横綱も来ているのだろうと思いましたけれど、眼鏡をかけて行かなかったので、よく顔が見えず、どうみても幕下と思われるお相撲さんの募金箱に千円札を入れたら、最敬礼をされてしまいました。
 このところの倹約ムードで、お財布のひもを固く締めていましたけれど、経済復興のためには消費も必要かと考えなおして、紀伊国屋書店で新刊の文庫本を4冊、明日の歌のレッスンの方のためにカステラ、切れかかっているコーヒーなどを買いましたら、気が晴ればれとしました。
 テレビをつけると暗い気持ちになるけれど(特にACのコマーシャル)、前向き、前向きと気持ちを奮い立たせています。
 今日道端でちょっとお喋りをしたご近所の70代のかたとは、戦争中のことを思ったら、どんなことでも我慢出来るわよね、と話が弾みました。

 東京の23区はいまだ停電がありません。でも皆、協力したい気持ちでいっぱいなのです。
 顔を合わせれば、その話になります。蝋燭も懐中電灯もスタンバイして、洗濯機も電気釜も、ましてやエアコンも使わず、昼間から湯たんぽを抱えて、厚着をし、ささやかな協力をしているので、仲間に入れてほしいと思っています。
 
今回つくづく実感したのは、日本の原動力は、官僚でも政治家でもなく、一億余の国民によるものと、いうことです。


                      
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