もう2月!
このところの大寒波で、あちこちの地方で雪害が起きているという。
なんとも痛々しい報道が続き胸が痛む。
東京も、うるう年の晦日前夜から珍しい大雪となった。
窓を開けて眺めていると、しんしん、しんしん…と音が聞こえてきそうな美しい夜だった。
朝になってもひたすら、といった感じで灰色の空から湧きだすようにこぼれ続け、でも雪国の人たちにとっては過酷な存在であることを考えると、申し訳ないことで、何事もほどほどっていうのがいいのだろうとしみじみ思った。
このお湿りで、猛威を振るっているインフルエンザも小休止を思い立ってくれることを祈らずにはいられない。


おとといシャンプーをしていて、耳に入った水が抜けず、昨日のデイホームのコーラスで難儀したので、お昼前に2カ月ぶりに耳鼻科に行く。どうしたことか去年から耳が詰まることが多くなり、耳鼻科の先生の対応も手なれたもの。
ものの5分でここ数日の悩みを解消してくださり、ありがたかった。
昨日デイホームでのコーラスの打ち上げをやった木畑亭で、牛フィレのコースを選んで、そのうえに牡蠣のエスカルゴ風という好物を食べたら、今朝はてきめんに体重が増加していた。この世情のなかで、食べたら太るなんて、愚痴ったら罰があたる。
そういえばこのところ運動不足だったなと思い、耳鼻科への往復一駅を散歩することにした。
てっきり寒いと思ったのに、強い東風は春一番を思わせた。
歩きながら重ね着を1枚、2枚と脱いでいく。……それなのに、夕方になったら風向きが北に変わって、またまた身を切る寒さ。
夜になってスミコの姉上のセツコさんから久々の電話。今回直木賞を取った葉室麟の「蜩の記」という小説が面白かったので、ぜひ読んでみて、とのご宣託に、「はい、明日買ってきます」、と妹分は素直。
早速買ってきた「蜩の記」は最初のうち、初対面の作者の文体に戸惑いを感じて、なかなか先に進まなかったけれど、半分をすぎる辺りからだんだんとのめり込んでいった。
今の世相でいちばん必要としながら、全く欠如してしまっている、日本人の精神性の高い生きざまを明確にとらえていて、面白く、揺れるバスの中でも手放せなかった。
1回目に見えなかった細部を見つけるために、もう一度読み返してみようと思っている。

今年の冬は後半になって、からから空気が解消されるほどのお湿りがやってきた。東京の冬は、肌が乾燥しまくって毎年その痒みの季節がやってくると思っただけで憂鬱になるのだけれど、今年はその痒みから解放されて、とても楽。
それでも去年の秋の終わりに経験した痒みに懲りて、毎晩のお風呂の後の手入れに余念がない。無精者の私としては画期的展開だ。
湯冷めしたくないので、寝しなに入る習慣がずっと続いているために、只さえ夜型人間が、このところ毎晩2時過ぎまで起きているはめになって、慢性寝不足。
植木屋さんが来た。もうそんな季節?と思ったけれど、考えたら前回から1年経っている。猫の額ほどの狭い庭だけれど、植木だけは忠実に成長をとめない。 自分の年齢を思うと、将来子供たちが植木屋さんに手入れを頼むことは負担がおおきいと考えて、今回は全ての木を思いっきり切り詰めてもらった。
2年前の冬、生い茂る木にまぎれて、ドロちゃんの訪問を許してしまった(許してないけど…)ことも今回の思い切った行動の思考に繋がっている。
なんだかすきすきしてしまった庭先からは、今、心もち青い空が広がったのも悪くない。
この頃頻繁に夫が夢に出てくる。ある夜半、夫とどこか外国の町を歩いていて、レストランの行列に並んでいると、夫が、ちょっと行ってくると言って、どこかに姿を消した。時計を見ると、2時15分前。
2時にお客さんが来るからそれまでに帰らなければならないのに、と苛々していたら、やがてふらりと姿を現した。
見れば、左手にギブスをはめている。あら、どこかで怪我をしたのかしら、と思ったところで目が覚めた。
数日後に現れた娘に話したら、しばし考えて、「ふーん、良かったじゃない、あの世でも怪我したらちゃんと治療してもらえてるんだ」
……こういう考え方って悪くない。
また数日後、夜中に寝ていたら下で玄関を開ける音がする。いつまでも音が止まないので、「誰?」と言っても返事がない。
何度も「だれ?、だれ?」と段々に自分の声が大きくなった。声が枯れたころに、寝室の戸が開いて、夫がパジャマ姿でよろよろと入って来た。
「どうしたの」「帰って来た」。
……ここではっきりと目が覚めた。
勿論誰もいない。
翌日「おとうさん、成仏してないんじゃないかしら」と娘に話したら、しばし考えた娘の次の言葉、
「帰って来た、っていうことは一度行ってんじゃないの?あの世とこの世って行ったり来たり出来るんだ、いいねえ」
私は幽霊でも夫なら大歓迎、という気持ちになっている。
でも、娘に言わせれば、
「元気でいた時は喧嘩ばっかりしてたのにねえ」
先に死んだほうが得だなあ、とつくづく思いながら、今夜も彼が現れるのを待っている。
余談ながら、夢に出た時は、朝念入りにコーヒーを入れてお供えしてあげることにした。
コーヒーが好きな彼は、あれ以来せっせと姿を現すけれど、なぜか無言。
出てきてやるだけ上出来!と思ってるみたい。

河津桜を見に行った。東京駅から「踊り子」に乗り込んだまちこさん、くんこさんに、私は品川から合流、横浜でみわこさんが乗り込んでくる。
連日のニュースでまだ早いことは解っていたのだけれど、ここまで咲いていないとは思わなかった。
駅を降りたとっつきの3本だけが何故か満開。これって怪しいなあ、と思ってお店で聞いたら、無理やり薬で咲かせたとのこと。
幾ら桜祭を謳(うた)って居るからって、そこまでやるか?きっと桜まつりの面目にかけて、ハイポネックスの原液をバケツでいっぱいやったんじゃないかしら。一種の虐待よねえ。
今回の一泊旅は「MMKK」の久々の揃い踏みだった。
とってもいいお仲間で大切に思っている人たちだ。
到着後の河津では、花の咲いてない木を見る必要が無いので、川沿いの桜が咲いている(筈の)ところまで際限なくといった感じで開いている屋台で、差しだされるままに片端からつまみ食いをしたお陰で、稻取のホテルに着いた時は満腹状態。

でも河津桜よりも稲取の金目鯛と温泉のほうがおおきな目的だから、桜が咲いていないのは、許してあげる。それに何よりもこの季節、桜に劣らず見事なのが伝統の吊るし雛なのだ。生まれた子の順調な一生を祈って作られるこのお雛様が町中に溢れ、小さくて静かなこの漁村が華やいで旅人の心を癒してくれる。
3回目の宿泊となったホテル稲取荘は、変わらず居心地がよくていい。
開花の遅れのためか、不景気風が災いしてか、ホテルは空いていて、案内された部屋は3部屋続きの上等。
今回は到着した夕方から翌日12時のチェックアウトまでに、4回お風呂に通った。勿論金目鯛を筆頭にお食事も極上。
朝のお風呂で、見事な日の出を見た。お風呂の中なのでカメラを持っていず、これは返す返すも残念だったけれど、おねだりして、まちこさんが部屋で撮った写真を、送っていただいた。
桜が見られなかった代わりに買ってきた河津のカーネーション園栽培の見事なカーネーションの束は、苦労して持ち帰った期待を裏切らず、2週間経った今も、衰えを見せず、絢爛豪華に玄関を飾ってくれている。もちろん夫にもおすそ分け。

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