春は名のみの…             

 桃の節句も過ぎたというのに、この連日の芯から底冷えのする空は、なにを考えているのかしら。
 テレビをつければ、お笑いの世界が充満して、あまり面白くもないナンセンスなトークに、可笑しがっているのは出演者ばかり。
 裏方でけらけらと高い笑いが聞こえてくるのは、アルバイトかしら?

 そんな中で自民党の谷垣さんと野田首相が激しいバトルをやっているのを見て、あれ?と思った。
 両者が珍しく自説を原稿を読まずにお互いの目を見て丁々発止とやりあっているのは、なんとなく不自然、と思ったら、案の定、昨日あたりから、八百長の噂が出てきている。
 そして両党からそれに対する批判の嵐。でも、仲良くやりましょうという下話をトップがやるのって、悪いことなのかしら?ここまで混沌としてきてしまったら、それしかないような気がする。
と単純おばはんは思ってしまう。
 私がもし、その立場にあったら(あるわきゃないけど)そういう方法で「友達の友達は友達のわっ」という道を選んでしまうだろうな。
 いずれにしても世相が複雑すぎて、人間関係もうまく回らなくなったのは、世の中すべてデジタル化したのが原因じゃないかしら?
 わたしゃ今に駅で切符を買うことすらできなくなるかもと思うと、おっそろしい気がする。
 あれ、ちょっぴり思考が飛躍した。


          


 退屈しのぎに坂を下りて、[AURA]に遊びに行ったら、顔なじみのご常連のタナカさんが座っていた。
 テーブルの上を何気なく見たら、見事な干し柿が並んでいる。
 私はこの世で一番好きな食べ物は?と聞かれたら、迷わずに「干し柿!」と叫んでしまいそうなほど干し柿に目がない。
 勧められるまま(勧められないうちに、だったような…)ひとつ口に入れたら、柔らかく甘い香りが口に広がった。
「どこで買ったの?」「うちの近くの八百屋さん、これ安いのよ、6個で350円。おいしいでしょ」「うん、最高!」
 …かくして、教えていただいたとおりに、10分電車に乗って、多摩川を渡った町に買いに行った。
 教わった店はどこにでもあるような、小さな八百屋さんだったけれど、品物を積み上げていたおばさんに、「干し柿ありますか?」
と聞いたら、黙って顎をしゃくった。
 「え?」「レジの横」見たらうっとりするような大きな6個入りの山が積み上げられている。
 レジに並んでいると、見事な菜の花が目に入った。でも、今日は要らないな、と一旦手にしたのを元に返したら、順番が来たときに、レジのおばさん、
 「菜の花は?買わないの?」
(あまりに乱暴な口調で、菜の花は買わんのけ?と言われたような…)

 なんとなく悔しくなって、「干し柿が美味しいって聞いたから、電車に乗って買いに来たのよ」と言ったら、おばさんの返事、「へ?」
…そして後日、タナカさんに会った時その話をしたら、
「そうなのよ、あんなにぶっきらぼうで、よく商売がやっていけると思う店」
とのことだった。

 そして、今日、買ってきた干し柿がなくなりそうなので、もう一度電車に乗って買いに行ったら、12時少し前なのに、まだお店の前に棒が渡してある。もちろんもう店に人は出ている。そういえば、タナカさんが、「時間が来ないと売ってくれないのよ」と言ってたっけ。
 それでまた駅に戻って、「とうきゅう」の売り場を一回り、欲しいものをチェックして、3階の電器屋さんに上がって小物を買って、ベンチで本を読みながら時間を過ごして、12時半近くなったので、もういいだろうと腰を上げた。
 お店の前に行ったら、もう通せんぼの棒は外してあり、おにいさんが店内に立っていた。
 干し柿だけでは折角ここまで来たのだから、とほうれん草を手に取ったら、おにいさん、
「まだ売ってない」「あら、何時から?」「……」「何時に来ればいいの?」「昼過ぎ」答えになっていない。
 ここで私の心臓が騒ぎ出した。(だれがこんな店で買ってやるもんか、こんな店で…、やるもんか…、やるもんか…)
 帰りがけにちらと見たら、[12時半から]と書いてあった。私の時計を見たら12時29分! ちなみに帰りに「とうきゅう」で買ってきた4割がた高い干し柿も、充分に美味しかった。

 余談ながら、私の干し柿好きのルーツには、いささかの理由がある。
娘時代、お正月になると、鎌倉に住む母の弟の叔父が必ずと言っていいほど、干し柿を持って年始に現れた。
 その干し柿は、今だったらかるく5000円はするというほどの、びっしりと実が詰まった箱で、母はそのたびに「どうして干し柿なんて持ってくるのかしら、嫌んなっちゃうわ」と言っていた。
 母が干し柿が嫌いだったのか、または、お姑さんに対しての気づかいだったのかは解らずじまいだけれど、とにかく私は穏やかな性格が好きだったその叔父のことを思って、せっせとその箱の中身を平らげていたのだった。
 その何十年も前に刷り込まれた感触が染みついて、干し柿のためには労力を惜しまないわたしなのだ。
 そして、家族経営のその店の、「家族全員ぶあいそう」を貫き通しているらしい姿勢にも、面目躍如の拍手を送りたい気分でいる。


         


 テレビをつけたら、ニュースで上野動物園のパンダが発情したと、コメンテーターが嬉しそうな顔で話していた。
 そして、次の場面で、まさに「こと」にあたろうとしているパンダちゃんの写真が写っている。
 なんだか正視に堪えない気がした。人間社会ではあり得ないことだけれど、こういう場面が動物の世界に対して堂々とまかり通っているのは、こちら側から見れば、「どったらこたない」というのかな?
 でもなんだか人間の奢りによる、独断と偏見なんじゃないかな、と、とっくにその世界からは卒業してしまったおばはんは思ってしまう。
 パンダちゃんにすごく失礼なことをしているような……、もしパンダが喋れたら、「この無礼者めが」と怒るのではないかしら。

 これとは関係ないけれど、同じ日の朝、去年からわが家に住みついていたやもりが、玄関でカラカラに干からびた姿で、お亡くなりになっているのを発見した。
 そもそもはもう1年近く前に、2階の階段の上の窓に張り付いていて、逃げ足の速いやつめは、さっと姿を隠し、その次に彼(彼女かな)に会ったのは、1週間の旅から帰って来た夜、出がけに汚れたままだった台所に掃除機を掛けた時に、間一髪掃除機から身をかわし、さっと姿が消えたので、ひょっとしたら掃除機で吸ってしまったかと、ずっと気になっていたのだった。
 なんたって私の大切な家族だったんだから。建て直してからの家の建築は気密性がたかく、虫も入ってこられない。
 きっと餓死してしまったんだわ。
 夏に向けて、窓を開いてまた次のやもりちゃんをお迎えしようかな、でもその前にごきちゃんが飛んできたら厄介だし…。


           


 玄関のチャイムが鳴ったので取り上げたら、なんだか悲愴感の漂うぼそぼそとした声が聞こえてきた。
「え?どちら様?」と聞き直したら、「○○クリーニングですけれど、何か出していただけるものありませんか?」
「今は間に合っていますけれど」「Yシャツ1枚でもいいんです、100円でやらせていただきますから」
 一流と名の通っているクリーニング店だ。
 大体私は滅多に洗濯屋さんを利用しない。夫のYシャツだって、気が張る用途以外のものは自分でのり付けして仕上げていた。
 だから、一流の洗濯屋さんなど思考の外。でも、その声を聞いた時、とっさになにか出すものないかしら?
と頭をめぐらした。
 それほどその声が哀れっぽかったからだ。でも結局は、「ごめんなさい、今出すものないわ」
とスイッチを切った。
 そして改めて世相の厳しさを思った。このところ毎日、ニュースでながれるのが、消費税の増税、と東電の値上げ。
 電気代が上がったら、このクリーニング屋さん大丈夫かしら?と心配になる。
 消費税に関しては、正当な使い方をしてくれるならと、心のどこかで承認している。もちろん、わが家の支出はダウンするだろう。でも、東電に関しては絶対許せない。社長が、胸を張って言った、「儲ける権利がある」と言った言葉が、絶対に許せない。


         
 

 クラス会に行った。名付けて「ミレの会」。昭和32年の卒業だからと、誰かが名付けた音大の同期会だ。
 青山の中華料理店の会場に辿り着く前に、地下鉄の改札口で、皆うろうろと迷っていた。
 案内状に「青山一丁目1番出口」とだけ書いてあったからだ。
 要するに青山ビルのB1だったのだけれど、こういうところが音大の典型。
 つまりはみんな大雑把な性格集団なのだ。事務能力がないというべきか。でもそういうところが長所につながることもいっぱいある。80歳を目前にしながら、そろって前向きで、からっとしているところが、何ともいい。
 去年は地震の直後だったので、中止になった。だから2年ぶり。
 声楽科が多いので声が大きい。しかも3つのテーブルの間を声が飛び交うので、話している内容がスクランブル状態。
 でも、悲しかったのは、宮城の同級生がひとり、津波に流されていまだに行方不明という報告だった。
 辛うじて助かったというはるばる仙台から出席した人が立って、同期のM君から、東北の被災地の同級生全員それぞれ(4人ぐらいだったと思う)に山のような救援物資が送られて元気づけられた、というお礼の言葉があった。
 Mくんの話、「お礼にかまぼこを送ると言われたから、白松が最中のごま味がいいって言ったんだよ」。これっていい話だなあ、お返しを辞退しない素直さがいい。
 帰ってから、当日欠席した野沢のカズコさんにその話を電話で伝えたら、彼女は地震直後にNHKで見た東北の、自らも被災されながら診療を休まずに続けているお医者さんのところに(NHKに問い合わせて)連絡を取って希望を聞き、ただちに必要な支援物資を送り、以来ずっと続けているという。今、個人情報とやらがうるさい折、NHKはなんと小回りが利くことよ、と、その臨機応変な処理に賛辞を送りたい。
「あなた一緒にやらない?」と言われて勿論ふたつ返事で同意した。
 彼女は、着物を解いて、買い物バッグ、ポシェット、などをそれぞれ100枚も送り、これから夏に向けて、100円ショップで扇子をまとめ買いして、バッグの余った布でお洒落な袋を作りいれて送るという。
 彼女には、何年も前に私がネパールの小学校に持って行った130枚のいすカバー作りに力を貸していただいた。
(これは、初めて行った山の学校で、子供たちが、刺の刺さりそうな木のベンチに座っているのを見かねてのことだった)。
 だから今度は私が助っ人になる。幸いこの間から、秋になったらデイホームに持っていくつもりで編み始めた膝かけが6枚になっている。
 夏が終わるまでにせっせと編み続けて、出来る限りの数を仮設住宅に届けるのが、今の私の目標となった。


            


 テレビを見ていたら、どなただったか女性のコメンテーターが、夫に死に別れて2年半が一番重いのよね、とさらりと言っていた。
 そうなのよね、ほんと。と心の中で呟いた。
 この間から妙に重く心にのしかかっていることがある。
 夫が亡くなる半年前、その時は小康状態で家にいた時で、桜が満開だった。
 ふっと思いついて、娘夫婦に頼んで、多摩丘陵のお花見に連れて行って貰った。
 途中で食事に立ち寄ったファミリーレストランで、食後に夫が財布から1万円札を取り出して、私に手渡したのを、「いいから、私が払うから」、と押し戻したときに、なんとも悲しそうな顔をしたのが妙に目に残っている。
 今ごろになって、あの時どうして、「ありがと、ご馳走様」と受け取らなかったのだろうか(私のお財布と言ったって、所詮は夫のお金だと思っていたのだけれど……)、なんだか夫の気持ちを踏みにじったままになってしまった。
 この夫のお財布に入っていた1万円は、一段落した時に子供たちの家族とご飯を食べに行って使ってしまった。

   
おとうさん、ありがと、ご馳走様  と心で感謝して……。

 後になって思ってもせんないことを、と、遅ればせながら膨らんできた桜の蕾を見ながら、ちょっぴりオセンチな気分の春到来だ。



                    
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