娼婦ビビアン
私の家の隣には、80年の昔義父が建てた古い家があります。
庭をつぶして新しい家に移って以来、未だに残してあるその家には、まだ道具類が残されています。
或る日……といっても10年も前のことですけれど、何かを取りに入った私は、廊下の角で、出会い頭に猫の親子と出会い、腰が抜けそうなほどびっくりしました。
それがビビちゃんとのなれそめです。
それ以来彼女は、我が家をレストランと決め込んでしまったようです。
彼女は娘(私の)によって「ビビアン」と名づけられました。
何回かの出産を経験した彼女の子供たちは、全部違う毛並みをしており、それぞれが安住の地を見つけたのでしょうか。
明らかにそれとわかる彼ら彼女たちは、立派に成人?して、時々近くで見つけると、可愛い首輪やリボンなどをまとい、幸せな生活が垣間見られる子もいます。
いくら猫とはいえ、多産系の彼女は、何人(匹)の彼氏をもったのでしょうか。
角に立って「おにいさん、あそびましょ」なんてやった結果に違いありません。
子供の数は膨大です。仮にも縁あって我が家に落ち着いた彼女には、いささかの責任を感じ、なんとかして捕まえて避妊手術をさせようと思いましたが、野良猫精神旺盛な彼女は、餌だけはしっかりと食べた挙句に、恩人の手を引っかいて逃げるというしたたかな「にっくき奴」でもありました。
……しばらく姿を消していた彼女が現れたとき、一人の娘を連れてきました。
これはどことなく抜けた顔をしていた子猫時代に、うちの家族によって「すっとん」とよばれていた子です。
あまた居る子供たちのなかからどうしてこの子が選ばれたのかは判りませんが、よほどの相性だったのでしょう。一皿のご飯を仲良く分け合い、少しでも子供に食べさせようという親心は、近頃薄れてきたかにみえる人間社会の親子関係を思うときに、感激すら覚えました。
寒い時には体を寄せ合い、(彼女の)娘のマユちゃんは、お母さんの体をくまなくなめてあげています。
梅雨が明けた週末の朝、息子がビビちゃんが庭で死んでいる、と言いに来ました。
人間に例えたら100歳ぐらいと思われる彼女は、がりがりに痩せていていつ死んでも不思議はない状態でしたので、私はためらわず清掃事務所に電話をかけました。
そして、火葬代の2,600円を用意して、せめて花でも、と思い、庭のランタナを一枝切って供えました。
その途端です。死んでいると思った彼女が怒りの声を発したのです。
私はなにをさておき、清掃事務所にもう一度電話をかけました。
「あのう、まだ生きてるんですけど」「それじゃ死んだらお電話ください」
そして、その後……どう考えても動く気力がなかった彼女は、忽然と姿を消してしまいました。
ちなみに彼女と出会ってから、鳴き声を聞いたことがありません。
後にも先にも彼女の声を聞いたのは末期のただ1回です。
今になって思うことは、彼女は「ビビアン」という高貴?な名前にふさわしく、毅然とした生涯を貫き通したということです。母親という同じ立場から考えた時、私はいささか忸怩たる思いを味あうことすらあります。
最後までお母さんのそばに寄り添っていたマユちゃんは、もうすっかり悟りきった顔で、今日もかんかん照りの車の上に座って、きれいな声で歌っています。



