祖母は明治8年加賀の大聖寺で生まれたようです。
「ようです」と無責任な言い方しか出来ないのは、私と祖母の絆が薄かったせいかもしれません。
 生まれたときから結婚するまで一つ屋根の下で暮らしながら、私には祖母に可愛がられたという記憶があまりないのです。

 これには少々弁明したい理由があります。兄と私は年子で生まれました。
父が横浜で商いをしていた関係で、我が家は常に大家族でした。
父方、母方の叔父、叔母たち、お手伝いさん、使い走りの小僧さん……
そんな中での母の苦労は半端なものではなかったと思います。

 ある時、母が言った言葉に私はショックを受けました。

 「貴女が生まれたとき、おばあちゃんがまだ次の子を産むのは早いって言ったのよ、それにこんな色黒の女の子で!って……」

 これは今になって考えると、母が溢れるストレスを私に吐き出したのだと思えるのですけれど、小さな子供だった私には、祖母に対する憎しみの心を植えつける原因となりました。

 そして母がお風呂場で涙を流しているのを見た時、てっきり祖母にいじめられたのだと思ってしまった私は、祖母に向かって「おばあちゃん大嫌い!」と叫んでしまいました。
 そう、私って可愛くない子だったんです(あえて過去形で言わせていただきますけど)……

 これについて一言 My Excuse! 私はオトコ兄弟のなかの一人娘で、誰からもオンナ扱いをされていなかったもので?!(実は現在に至るまで、我ながら女らしくないな、と思ってるんです)
おばあちゃんに可愛がられなかったのは、そんな私の「かわいくなさ」もおおきな原因だったかもしれませんね。

 そのあと母親に「おばあちゃんに手をついて謝りなさい」といわれ、手をついて頭を下げていた間の屈辱感は、幾星霜を経た今でもはっきりと覚えています。

 加賀のお殿様のお屋敷で、お姫様と一緒に行儀見習いとして暮らしたという祖母は、最後まで女性としてのたしなみを忘れませんでした。
 一緒にお風呂に入ると、しつこいくらい体中を洗われ、近くに寄ると、常にほのかな香水の香りが漂っていました。
 「歳をとると老醜が目立って人に不愉快な思いをさせるから、寝る前に香水をつけるのを心がけているのだ」と言う言葉も、今になって実感として伝わってきます。

 どう考えても器用とはいえなかったのに、手仕事が好きで、せっせと小さな布で袋を作ったり、何処から手に入れたのか、友禅や小紋の華やかな端布で、掛け布団をせっせと作っていました。今でいうならパッチワークです。

 どんなにかその可愛い掛け布団が欲しいと思ったかしれませんけれど、これを孫に与えるという気持はさらさらないようでした。
 
 祖母の一日は、朝晩の読経、午後の謡曲と、結構規則正しく自分のための時間をこなしていたのですけれど、あまり人のことは考えていなかったような気がします。
 私の子供たちに対しても冷静でした。

 そして私は、絶えず反発しながらも92歳で亡くなる前に祖母が言った言葉で、が〜んと頭を打たれたような気がしました。

「あんたが一番優しいね」 
〜たかが榮太楼の黒飴を1箱お土産に持って行っただけなのに〜
おばあちゃんは、栄太楼の黒飴が大好物だったのを知っていてのことだけだったのに…です。

 でも、でも血縁というのは争えないものです。
鏡をみると、自分の顔の中に祖母がダブってきますし、不器用なのに絶えず何かの手仕事をしていないと落ち着かないのは、明らかに祖母の DNA のようです。
 
 祖母が他界した歳までは、まだまだ大分ありますけれど、これから先、私はおばあちゃんと同じような生き方をしていくような気がしてなりません。

 関東大震災の折、お昼を食べ損なったという経験から、11時半になるとお昼を食べ始める祖母、母が留守でおかずが無いお昼、蟹の缶詰を2個食べちゃった祖母、小さな巾着袋をせっせと作って人に配るのが好きだったけれど、何故か紐の先が表に出ない!
読経中にご飯よ、と呼びに行くと続きはあした、といって途中でやめてしまった晩年……

 もし元気でいたときに、そんな祖母の可愛らしさに気がついていれば、もっと仲良くなれたかもしれません。
 


 祖母は5月1日に亡くなりました。ちなみに母の58歳の誕生日です。
本来ならば皆で祝ってあげる誕生日なのに、6ヶ月前に夫に逝かれた母にとっての重なる不幸は、どんな思いの皐月のスタートだったことでしょうか。

 お葬式に関して、落語に出てくる笑い話のような思い出があります。

 私たち家族は、祖母の亡くなる3日前に社宅に引越しをしました。

 たまたま、実家の風呂桶が壊れて、急遽要らなくなった我が家の桶を運送屋さんに運んでもらったのですが、それが届いたのが、祖母のための棺桶と前後していたため、
「桶を持ってきました」
という運送屋さんの声に、皆てっきり棺桶だと思ってしまったのです。

 時代小説に出てくるような丸い桧の桶(座棺?)を見て一瞬唖然、そして畳を叩いて爆笑していた兄弟たちの姿が、いまだに忘れられません。

 今思うと、家族全員が血液型 O 型である私の実家は、どんなにか騒々しかったことか。
きっと目に見えない中で、全員が潜在的に自己主張をして暮らしていたのでしょう。
線香花火のような火花を散らしながら……。

 でも現在まで兄弟妹3人が仲良く協力しあって、暖かい関係を続けていられるのは、祖母、両親をはじめとして、先に向こう岸に渡っていった人たちの残してくれた、何ものにも替えがたい大きな財産だったと、しみじみ考えています。

 そして一度、石川県大聖寺にあるという、私たちのルーツである墓所と、しばらくご無沙汰している、鎌倉瑞泉寺の祖母と叔母の墓前に、行きたいと思っています。

祖母のこと

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