ねるふぇん しゅめるつぇん


    
 
今日のお話は、私の仲良しの分身にかかわる話題です。
前回野沢温泉に行った話しを書きましたので、今回はそのルーツについてです。

 膝が痛くなりました。そして、左肘の腱鞘炎、左腰の坐骨神経痛と、このところ左半身不随状態です。そもそもの始まりは30年以上前にさかのぼります。

 そのころ私たちは「くにたち」にある社宅に住んでおり、都心に出る時はよく車を使っていました。
 或る日甲州街道を走っている時に、前の車同士がぶつかり、私が急ブレーキを掛けたはずみで助手席に座らせていた当時幼稚園児だった娘が座席の下に転がり、反射的に伸ばした左手がギクッ! そして、あれよあれよという間に痺れてきました。そして、それ以来私の腰は存在感を主張するようになってしまったのです。


 
ちなみに当時はシートベルトなんてものはありません。民家の軒先を走っていると突然
道幅が数倍になるという、かんぱち(環状八号線)だか、かんなな(環状七号線)だかが作りかけの状態だった時代です。

 でもO 型射手座は事の重大さにはまったく無頓着で、以来30年以上、時折“アイテテテ”を繰り返しながら、生き続けてきました。
奴めは本当に礼儀知らずで、アポイントメントはまったく無視なので、こちらも油断してはいられません。突然太ももに畳針を刺されたとご想像ください。もう神経の持ち主としては「この無礼者めが!」
と激怒してしまいますが、こちらの怒りはまったく無視、無視!

 〜余談ながら神経痛はドイツ語で「ネルフェン シュメルツェン」というようです。
「神経痛」と日本語でいうと、聞いただけできりきりしてくる足も、「ネルフェン シュメルツェン」というと、なんだかふわっとした雰囲気があって、許せるように感じるのが不思議です〜

 話が逸れました。その迷惑な訪問者が歳を重ねるに従い、だんだんと我が物顔に失礼な振る舞いをするようになり、いまや軒先を貸して母屋を取られた状態です。

 ついに分身となってしまった神経痛を、どう処遇したらよいか考えた私は、その度重なる訪問を心よく受け入れるための意識転換をしました。


 
「あ〜ら いらっしゃい、さ、さ、お風呂にどうぞ」

 
古い話になりますが、私の坐骨神経痛は、前記の理由だけではありません。歩くことが好きだったために、ずっと昔、都内23区の制覇を試みました。

 気の合ったジュンコさんと1ヶ月1回ぐらいのペースで、せっせと歩きました。
 日比谷公園の角で、約束した8時50分ぴったりに姿を現したジュンコさん(彼女は目黒から歩いてきたのです)と落ち合って、浅草まで歩いたのが最初と記憶しています。
ちなみにジュンコさんとは、40代なかばで1ヶ月入院した時の切腹つながりです。

 多い時は1日20キロ以上、自分の住む東京の町を見物、さまざまな発見にわくわくしたものです。
 皇居の西側に住む私たちにとって、東側は未知の世界です。
江戸川区では小松菜の畑が多いのにびっくり!小松川という町です。
そしてここは、シクラメンの栽培が盛んなことも発見でした。

 ある時は、池波正太郎の世界にとっぷりと浸り、またある時は、若者気分でウオーターフロントを、とそれは5年以上も続いたと記憶しています。
 江戸っ子B型のジュンコさんは小学校も都心の下町で、そこらを蹴散らして歩くようなヨコハマっ子気質の私とはとても気が合いました。
(そうそう、誕生日も2日違いでしたっけ)。
 一日中喋りながら止め処もなく歩き、お昼は何故か行き当たりばったりのお店の天丼、おやつは銀座でお汁粉と決まっていました。Gパン、スニーカーでの銀ブラも乙なものでした。

 でも、流石に行くところがなくなり、なによりも歩くと疲れるようになって、この計画は終了しました。

 数日前ひょっこりと顔を見せたジュンコさんは、「もう歩けないわ」と彼女らしくない弱音を吐き、私ももう20分歩く距離は、バスに乗りたい気分です。

 そして親しげに、まったく唐突に訪れた神経痛をおもてなしするために、今日も昼間から本を抱えてお風呂に飛び込んでいます。


 
そんな“わけ”での、野沢温泉行きでした

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