HOME

 坂を下っていくと四つ角があります。
その左の角に、古くて大きな柳の木がありました。

 初めてその木を見たのは、結婚して夫の家に来てまもなくでした。もうその頃から大木だったので、きっと昭和の初期からあったのでしょう。
 「なんて優しい木!」と思ったのを覚えています。

 恐らくそれ以前には、このあたりは木がたくさんあったのではないかしら?
そして、時代の変わっていくにつれて、1本、2本と伐られてしまった挙句の生き残りだったに違いありません。

 当時……そう、40年以上も前のことです。その頃このあたりが舗装されていたかどうか、記憶が定かではないのですけれど、その木はしっかりと地面に幹をおろし、踏ん張っていました。
そして、ずっとあとまで、アスファルトの重みにもじっと耐えていたようにみえました。

 結婚当初は義母との確執が絶えず、私は山のようなストレスを扱いかねていましたが、自分を処し切れなくなると、よくその木を見に行きました。

 そっと幹に手を触れていると、気持も静まって元気を取り戻し、また、とことこと坂を登って帰るのでした。
 今で言うなら「気」をもらっていたということですね。

 そして、勝手に私の理解者と心に決めてしまったその木は、いつも私を見かけると、さやさやと手招きして、私の胸のうちの思いに、耳を傾けてくれていたのです。

 柳は私にたくさんの教訓を与えてくれました。

 でも悲しいかな、半煮えニンゲンで学習能力に欠けている私は、柳を見習って風の流れのままに、身をゆだねることができず、「わかっちゃいるけどやめられない」の言葉どおり切り株にゴチンゴチンとわが身をぶつけながら、不器用に歳を重ねていきました。

 しばらくして、夫の仕事の関係でこの地を離れましたけれど、その木はいつも私のなかで一緒でした。
 きっとずっと私を見守ってくれていたのでしょう。
この木のおかげで、大事な長男を、幼いうちに亡くしてしまった悲しみにも耐えられたといっても、過言ではありませんでした。

 柳は私にだけではなく、この土地の長い変遷をも、ずっと見守ってくれていたのでしょう。
 幸いにしてこの土地は、関東大震災にも、戦争の被害にもあわなかったので、何時の頃かに植えられたこの木は、土地の歴史のなかで、唯一変遷を見つめながら育った、この地域一番の識者だったことと思います。

 ちなみに夫の家は、昭和初期の東横線開通の折に建てられたそうです。だから舅とこの柳の木の話をしたこともありました。
 「良い木だねえ」といっていた父の声が聞こえてくるようです。

 子供の時からこの地で育った夫の話では、その頃はあたり一面麦畑で、家の周りにたぬきが出没したとか。

……今から20数年前、両親が老いて、義母が父を置いて先立ってしまったので、私たちは近くの町からこの地に10年ぶりで戻ってきました。
 

 
 そして、私はこの柳に会いに行きました。
 坂を下りていくと、春の風の流れに任せて、柳は以前にもまして、さやさやとあたたかく私を歓迎してくれました。
 なんだか全てを知り尽くしているかのような、おおらかな枝ぶりは、父親のような気さえしたものです。

 

 子供たちが成長して、私の気持にも余裕が生まれた或る日、しばらく会っていなかった柳に会おうと思いついた私は、坂を下りました。

 そして、私が見たのは、ぽっかりとあいた穴!

 つい最近まで見事に息づいていた柳の木は、無残にも掘り起こされて、残骸すらありませんでした。
 どう考えても枯れたとは考えられません。しばらく呆然と立ち尽くしていた私の横を、車が絶え間なく通りすぎてゆきます。

 こんな騒然とした世の中に、柳は愛想を尽かしたのでしょうか。
それとも泣く泣く伐られていったのでしょうか。私には、後者のような気がしてなりません。
決して、けっして邪魔な存在ではなかったのに…

 しばらく経って、柳の木のあった場所にコンビニが建ちました。
深夜まで若者で賑わうこのお店が、親の敵のような気がして、どうしても行く気になれない私なのです。

 そして、豊かな自然を破壊し続ける人間に、柳の鉄槌が降らなければいいけど、と密かに心配しています。

柳のお話